1992年10月の中共第14回全国大会で、鄧小平氏が南巡講話で示した「社会主義市場経済」を積極的に導入することを決定した。人事では江沢民は総書記を続投、首相の李鵬は計画経済論者で保守派だったが、副総理に朱鎔基が就任したことが大きかった。彼は上海市長を務めた実績があり、鄧小平氏の考えの最大の理解者だった。1993年に李鵬が病気で職務から離れると、朱鎔基が経済政策決定の主導権を握った。そこから1994年に国と地方の税収比率を変える「分税制改革」を断行、資本主義国家と同じ企業制度、銀行や投融資制度、国有企業の株式化、1997年香港マカオ返還、そして2001年中国のWTO(世界貿易機関)加盟など、「社会主義市場経済」の基盤を確立していった。
ただ改革は当然痛みを伴うし、裏面もある。識者の中には朱鎔基を「中国で蔓延する腐敗と汚職・環境破壊を招いた張本人」と否定的に評価する者もいる。朱鎔基は総理就任(1998年)の際、「赤字国有企業問題を3年以内に解決する」と表明し、鉄道や基幹産業以外の国有企業の大部分を民間に払い下げた。しかし売却先は、共産党幹部の子弟(太子党)に破格の安値で払い下げられていた。国民の共有の財産であった国有企業が、ごく一部の人間に二束三文で売り払われ、その代償として、労働者4000万人が突如解雇され、補償も無く、医療保険、住宅手当、その他福利厚生の全てが消滅した。
その結果生み出されたのが、中国で栄華の限りを尽くす太子党の「新富人」と、4000万人の中高年失業者であり、朱鎔基の政策が中国の貧富の格差と失業者問題を引き起こしたという見解もある。
もう一つ功罪の意見が分かれることが、1998年の「98房改」と言われる不動産の売買を解禁したことだ。結果的にこれが中国発展の原動力となったが、今の巨大なバブルという負の遺産も残すことになったからだ。
