スミスは著書の国富論において、個人の「利己心」や「富と地位の快楽」を追求すれば、「神の見えざる手」に導かれて、社会の利益が増えると説いた。

曰く「我々が食事をできるのは、肉屋や魚屋やパン屋が自分自身の利益を考えているからだ。我々は彼らの人類愛に呼びかけているのではなく、彼らの利己心に呼びかけているのだ。」と。当時根強かった「私的利益の追求は、徳を喪失させ、亡国化する。」という考え方を、スミスは180度変えたのだ。

ただ、このように書くと、スミスを「全てを市場に任せれば良い」という「市場原理主義者」のように考える人が多いが、それは誤解だ。

スミスのもう1冊の代表作「道徳感情論」においては、共感やフェアプレイの重要性が説かれている。スミスの言う「神の見えざる手」は、国富論で語られた「市場を調整する手」だけではなく、道徳感情論で語られた「平等を達成する手」だ。

自由放任主義(レッセーフェール)をスミスの主張だとする識者は多いが、スミスはそんなこは全く言っていない。スミスは政府の役割を、国防/司法/公共事業とする「小さな政府」を主張していた。それに教育や補助金の大切さや、一時的に自由貿易を制限することも必要だと考えていた。自由放任主義は後の人が、スミスの考えを誇張もしくは誤認したものに過ぎないのだ。